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Never Let Me Go わたしを離さないで

イギリス映画 (2010)

チャーリー・ロウ(Charlie Rowe)が、3人の主人公の1人、トミーの少年時代を演じた問題作。個人的感想を述べれば、私は、この映画が好きではない。その理由は、どこにも救いがないからだ。以前紹介した『幻(まぼろし)』にも、救いがなかった。しかし、見るものを引き付ける力強さがあった。それは、生まれて間もない国の荒々しさだったかもしれない。しかし、この映画には、その「力」すらない。あるのは「諦め」と「傍観」だけ。恐らく、その咎は、原作の作家である「カズオ・イシグロ」が負うべきであろう〔ノーベル賞作家でも〕。いくら仮想現実の世界とはいえ、状況設定が、非常に非人道的だ。成人での臓器移植を前提としてクローン人間を作る。それだけでも、問題があるのに、そのクローン人間が学校で教育を受け、ハイティーンになれば恋もする。つまり知能と感性を持った生命体だ。カリフォルニア州の「シーワールド」で行われているシャチのショーが2016年で廃止されることになったのは、動物虐待だから。シャチよりも遥かに高度の知能と感性を有する生命体を、クローンというだけで、切り刻んで臓器として利用する。そうした非常識な設定に深い憤りを覚える。いくら小説の世界だからといって、踏み外してはならない一線はあると思う。

映画の冒頭に3行で解説文が入り、映画の舞台はパラレルワールドで、1952年に医学上 飛躍的な進展があり、これまで不治だった病気も治療できるようになり、1967年までに平均余命が100歳を超えた“架空の世界”でのストーリー、だと紹介される。舞台は、1978年のヘールシャムという施設。一応、学校ということになっている。103分の映画の前半28分、つまり3割弱がこの施設での話なので、結構比重が大きい。大人になってから起こる様々な事象の発端はすべてこの学校での出来事が発端となっているだけに、一つ一つの挿話が重要である。しかも、幸いなことに、最後のルーシー先生の告白のシーンを除き、見ていて、それほど「やるせなさ」を感じさせない。そこが、大人になってからの後半7割との大きな違いである。

チャーリー・ロウは、役柄上、『ネバーランド』のピーター・パンのような溌溂(はつらつ)さは全くない。控え目で目立たない性格のため、印象が薄い。ピーター・パンとは別人のようだ。


あらすじ

ヘールシャムでの定例の朝礼の時間。校歌の斉唱に次いで、校長からその日の簡単な話題紹介がある。その日は、タバコの吸殻が3本発見されたこと。多分、学校に出入りする業者のものであろうが、生徒への注意喚起が必要だとし、「ヘールシャムの生徒は 特別です」「元気でいること、健康な体でいることが、最優先課題なのです」と強調する。
  
  

学校に、珍しく新任の教師が赴任する。そして、たまたま、キャシー、ルース、トミー達3人の学年の担任となった。校庭でボール遊びをしていて、生徒の打った球が学校の柵の向こう側に落ちた時、トミーは取りに行こうとしなかった。それを不思議に思ったルーシー先生は、後から生徒達に訊いてみる。「なぜトミーは、ボールを取りにいかなかったの?」。キャシーは、「柵が、ヘールシャムの敷地の境界だからです」と答える。他の女子生徒が、「境界の外へは行きません」。「危険すぎます」と続ける。そして、出て行った生徒が、どんな恐ろしい目に遭ったかを話して聞かせる。実際は、生徒が逃走しないよう作られた話だ。
  
  

美術の時間。トミーは、年令にしては幼稚な絵を描いている。いつもトミーをからかうルースが、「トミー、何してるの?」「それって、何?」と訊く。他の子が、「犬だと思うわ。そうでしょ、トミー?」と言うと、別の子が、「犬なもんか。目が小さすぎる。きっとネズミさ」。トミーは、「ネズミじゃない。象だ」と言う。上手に描かれた絵は、校長らにより選定され、“ギャラリー” と呼ばれる場所に持って行かれる。トミーは、そうしたことには無関心で、一度も採択されたことがない。
  

学校のサッカー・コートにいる男子生徒を見ている女の子たち。トミーが、空色のシャツをはおっているのを見て、キャシーが、「ほらあのシャツ、お気に入りのポロ・シャツね」と話す。トミーが他の男の子ともめているのを見たルースは、「ほんとに鈍感なんだから」。チーム・メートから「お前には、いて欲しくないってさ」と言って爪弾きにされたトミーは、体を大の字に開いて叫び声を上げる(1枚目の写真)。「何やってるのかしら?」。ルースは、冷淡に、「自業自得ね」「あんなだから、からかわれるのよ」。可哀想に思ったキャシーが寄っていき、肩に軽く触れると、男の子と間違われて叩かれる。お互い気まずい2人(2枚目の写真)。
  
  

食堂で。仲間外れにされ一人で食べているトミーのテーブルに、キャシーが座る。「女の子たちと、座らないの?」。「そうね、座らないわ。あなたと座るの」。「君に 謝りたかった。叩くつもりなんか なかった。女の子は絶対叩かない。特に君は」。「ただの偶然だったのよ」。2人には、なぜか引き合うものがあった。
  
  

映画を鑑賞する時間。生徒全員で白黒の喜劇を見ている。楽しそうに笑うトミーを、振り返ってみて微笑むキャシー。
  
  

生徒たちが代用コインで “プレゼントの品々” を買える日。ダンボールに詰め込まて届いたのは、捨てられたような衣服、雑貨、おもちゃなどのガラクタ。ルーシー先生は、あまりのお粗末さに愕然としているが、何も知らない子供達は大はしゃぎだ。テーブルに並べられた雑多な品々を、苦労して貯めた代用コインで交換していく。何も交換せず廊下に座っているキャシーに、トミーが寄っていく。トミー:「買わないの?」「もし、代用コイン使っちゃたなら、貸してあげるよ」。キャシー:「混み合ってるから待ってるの」「残り物にも福があるから」。トミー:「大丈夫かい?」「もし、見つからなくてもいいんだ。僕が見つけておいたから」。キャシー:「音楽のテープ?」。トミー:「よく知らないんだ。悪くないとは思うけど」。キャシーは、「ありがとう」と言って、トミーの頬にキスをする。そして、女子寮に戻ると、そのテープをうっとりとした顔で聴いている。
  
  
  

前半で最も重く、重要なシーン。ルーシー先生が辞任の前、自分のクラスの生徒に対し事実を話す場面だ。「問題は、あなた方に対する、言わずもがな的な説明です。ここに赴任して気付きました。説明はあっても、理解されていないのです。ですから、あなた方が理解できるように、説明したいと思います。子供が大きくなると、どうなるか知っていますか? それは、誰にも分かりません。俳優になってアメリカに行くかもしれないし、スーパーで働くかもしれません。学校の先生や、運動選手、バスの車掌、カーレーサー… 何にでも なれるのです。でも、あなた方は違います。誰もアメリカへ行かないし、誰もスーパーで働かない、既に決められた道を歩むしかないのです。大人にはなりますが、短期間です。老いる前、中年にすらならない前に、重要臓器の提供が始まるのです。そのために、あなた方は創られました。そして、3回目か4回目の提供で、短い一生を終えるのです。あなた方は、自分が誰であり、何であるかを知るべきです。それだけが、生きることへの証なのです」。これだけ話すと、言葉を失い、立ち尽くす先生。ただ、生徒達が衝撃を受けた様子はない。風で教壇から落ちた用紙を、黙って立ち上がり、拾ってあげるトミーの行動が印象的だ。
  
  

これまでトミーをバカにしてきたルースが、庭でトミーの口にキスをし、それをキャシーが辛そうに見るシーンで、ヘールシャムのシーンは終わる。
  
  

第2幕は、1985年。3人がヘールシャムを卒業し、“田舎家” と呼ばれる、次の段階へ進むシーンから始まる。写真は、3人が始めて “田舎家” に到着した場面。その前に説明があり、トミーとルースは、子供時代のキスが端緒となり、その後2人は恋人同士になったとキャシーの独白が入る。そして、18才でヘールシャムを出た後は、各地の “田舎家” で臓器提供の始まる日を待つのだとも。
  

“田舎家” で生活する間、トミーとの仲を見せつけるようなルースに嫌気のさしたキャシーは、“看護人” になることを決心する。臓器提供した仲間を病院で肉体的・精神的に支えることがその役割だ。なお、“看護人” になると、臓器提供の時期を10年近く遅らせることができる。“看護人” として多忙な日々を送るうち、トミーとルースのことは忘却のかなたに行っている。そして、映画は第3幕の1994年、「終焉」。一番重い部分だ。キャシーが “看護人” としてある病院を訪れた時、そこで偶然入院中のルースに会う。2回目の臓器提供を終えたところで、器具に寄りかかって廊下を歩く姿が痛々しい。重要な臓器を2つも失えば、生きて行くのが厳しい状態に陥るのは当然だ。ルースは、3度目の提供で “終わる” ことは覚悟していると話す。そして、ずっと会っていないトミーと、最後に一度会いたいとも。キャシーが手配して、トミーが2回目の臓器提供を終えた病院へ連れて行く。まず、キャシーが車から降り、待っていたトミーと抱き合う。悲しい再会だ。
  
  

3人で、海岸を訪れる。仲間うちでは知られた場所だが、行ってみたら、ただ廃船が砂浜に放置されているだけの何もない場所。そこで、ルースが突然、2人に許しを請う。子供の頃、キャシーとトミーの仲の良さに嫉妬し、わざとトミーに接近し、2人の仲を裂いたと告白。罪を償いたいと、ある住所を教える。そこに住んでいる女性は、ヘールシャムで選定された優秀な絵を保管する “ギャラリー” の管理者だった。この行動の背景には、ヘールシャムの出身者で、本当に愛し合った男女は、臓器提供を数年猶予してもらえるという「確度の高い噂」と、“ギャラリー” に優秀だと認めてもらえれば、猶予の可能性が高まるのではないかという「希望的観測」があった。
  
  

キャシーに対する愛を改めて確認したトミーは、2人でルースの教えた住所を訪れる。そこにいたのは、“ギャラリー” の管理者だけでなく、かつての校長(女性)もいた。そして明かされる、最悪の事実。「ヘールシャムは、臓器提供の倫理的側面について考える最後の場所だった」「あなた達の絵は、ドナーの子供達も、ほとんど人間なのだと示すために使った」と述べる元校長。「確度の高い噂」も「希望的観測」もないと確信したキャシー。トミーに、「猶予なんて、ないのよ」と話しかける。“ギャラリー” の管理者は、すかさず、「猶予なんてない。存在したこともないの」。車で帰途につく2人。途中で、トミーが、「悪いけど、少し停まってくれないか。外に出たいから」と声をかける。車を降り、悲痛な叫び声をあげるトミー。それは、かつてサッカーで除け者にされた時にあげたのと同じ叫び声だった(最初から4節目の1枚目の写真)。見かねて車を降り、トミーを抱きとめるキャシー。
  
  
  

トミーの最後の日。3度目の臓器提供のため、手術台に横たわり、キャシーを見て微笑むトミー。それを見て、微笑み返すキャシー。心を去来するのは、かつて映画を観ていた時に見合った2人の思い出だった(最初から6節目の2枚の写真)。トミーを失って2週間後、キャシーにも臓器提供の通知が届いた。
  
  

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